2012/3/7 ●小さなヴァーラーナシー

 

アヨーディヤにもう一泊しようと決めたのは朝だった。本当はなるべく早く、できれば今日の午後にでも次のクシナガラに向けて出発したかった。そうすれば夜には到着するだろう。

明日はホーリー、移動のためとはいえ下手に外に出て色粉や色のついた水を掛けられるのはうんざりだった。学生時代に一度経験したらもう十分だ。しかし昨日、このアヨーディヤに到着して宿を探して彷徨う間、街中を歩いてみて今日の午前中の半日だけで出てしまうのは惜しいという気になった。どうしようか昨晩考えたが結論が出ず、結局今朝になっても迷っていたが、今日は1日ここで過ごした方が後悔が少なそうだ、明日ホーリーの中を移動するのも仕方ないと自分に言い聞かせた。帰国日が迫って来ていたので明後日出発では遅い。

地図を見ると、アヨーディヤはサリュー河という河沿いの町だったので、なんとなくまず河に行ってみようと決めた。昨日乗り合いのリクシャが最後に停まった辺りが町の外れらしかったので、そこまで行って探してみよう。

ツーリストバンガロウを出て駅まで行き、そこでサイクルリクシャを拾う。ファイザバードとアヨーディヤをつなぐ道に出て、乗り合いのリクシャを拾い、昨日降ろされた町の端まで行ってみる。小さな町なのでターミナルのようなものはないのだが、その辺りはリクシャやバスがいくつも停まっていて、他の町とも結んでいるようだった。そこで美味しいさとうきびジュースを飲んでプリーを食べ、さらに先に少し歩くと、道路の両側にひなびた店が並び、その道の先は数段の段差があって盛り上がっていて、その先に空が見えた。

すぐにピンときた。河だ。なんだか懐かしい、ソフトなデジャヴューのような感覚に包まれ、思わず先に向かってふらふらと歩いていった。数段の階段を上ると、眼下に河の風景が広がっていた。

 

思わず自分に苦笑していた。昔インドに来た時、ヒンドゥーの寺院などをたくさん見て回った。その反動もあってか久々にインドを尋ねた昨年、今年ともに若干意識してそういう場所を避けて旅してきたのだ。もちろんヴァーラーナシーも素通りしてきた。

その自分が、このアヨーディヤーの河畔の、ヴァーラーナシーの雰囲気を残す風景に、どこか懐かしさを感じ、少し心ときめいているのだ。階段の周辺ではバラモンたちが鈴を鳴らしてプジャーを捧げていたり、歌を捧げる声を響かせている。河を見降ろすと、砂地の河畔が広がっていた。物乞いたちが砂の上に2列になって座って喜捨を求めている。その間を沐浴に訪れた巡礼の家族たちが歩いている。河で沐浴している人はまばらだった。

 

小さなヴァーラーナシーみたいだ、と思った。長くヴァーラーナシーには行っていない。昨年結婚式に呼ばれて近くを車で通った際には、橋の上からライトアップされているダサーシュワメードガートをちらっと見かけた。ライトアップもそうだが、きっと今ではガート周辺もコンクリートなどで綺麗に整備されているに違いない。

それに比べると、このアヨーディヤーのガートはずっと垢抜けていなかった。でも、100年とまではいかなくとも50年、いや50年よりもっと前のヴァーラーナシーはきっとこんな感じだったんじゃないかなと思わせるような、のどかな雰囲気が感じられた。ひなびた通りの露店、決してぎっしりと連なることはないが、ぽつぽつと点在する巡礼客たち、そして砂地に座り込む痩せこけた物乞いたち。河岸の整備も最低限だ。そしてそこに何かホッとするものを感じている自分がいた。

サリュー河のガートに続く道
サリュー河のガートに続く道

 

階段を下りて砂地の河畔に降りて川岸に行ってみる。このサリュー河というのは下流でガンガーと合流するようだ。見た感じでは水がごみや生活排水などで殊更汚れている様子はなく、普通の川の水といった感じだ。皆、ここに沐浴を目的に来ているのだが、子ども連れの家族は川遊びにでも来たようにキャッキャと騒いで水を掛けあって遊んでいる。若い夫婦は二人で腰ほどの深さの場所に立ち、太陽に向かって目をつぶり、何やらマントラのようなものを呟いては腰を落して肩まで水に浸かり、立ちあがってくるっと身体を一回転させる、というのを繰り返していた。

他にも沐浴をしに来たインド人は何組もいて、しばらくそれを眺めていた。彼らの世界観、何を信じ、何を願ってここに来るのか、理解してみようと試みてきたが、自分には合点のいかないことが多くもどかしかった。そしてそのもどしさゆえに、ヒンドゥーの聖地と呼ばれる場所を訪れることに、いつの間にか自分は気が進まなくなってきているのだった。深い理由もなく来ている人もいるのかもしれない。しかし太陽に向かって祈るように少なくとも超自然的なものの存在を心から信じている。ヒンドゥー教徒ではない自分が想像を巡らせて彼らの心にシンクロできるのはせいぜいその程度だ。

ところで、ここでも写真屋がいた。ナグプールのDeeksha Bhoomiで見かけたのと同じだ。20歳くらいの青年がカメラで撮影し、まだ小学生くらいの子供が例のEpsonの写真用プリンターでプリントしてあげている。料金は1枚20Rs。

インド人は写真にうるさい。観光地なんかで家族や友人でスナップ写真を撮影しているのを見ていても、まるで芸能人のようなポーズをとったりする。中には撮影する友人が、わざわざ手の位置や角度を調整しに被写体のそばまで駆け寄ってくることもあって笑える。ここでも若い夫婦のうちの女性の方が、デジカメのモニターに映った自分の写真を見て、カメラマンにあれこれ問い詰めている。カメラマンの少年もカメラの機能を説明しながら、こうしたらナチュラルモードで、こうしたらvividカラーになって、などと必死に反論している。最後には女性の方が折れたようで、不満な表情を残しながら写真を受け取っていたのが印象的だった。

サリュー河の沐浴風景
サリュー河の沐浴風景
今どきインドの写真屋さんの商売道具 デジカメとプリンター
今どきインドの写真屋さんの商売道具 デジカメとプリンター

 

上流の方を見ると、今立っている沐浴場から少し距離を置いて何か見えるが、何だかわからない。下流の方を見ると、これまたかすかに川岸に何かが目に映るのだが、何だかわからない。そもそもなぜこのように分かれているのだろうか。ひょっとしてインド人の所属階層ごとに沐浴する場所が分かれているのかな?などと思いを巡らせながら、行ってみることにした。まず、下流に向かって川岸を歩いていく。沐浴する場所を一歩離れるとまるでゴミ捨て場のようにごみが散乱している。インド人のこの感覚も自分には理解しがたかった。沐浴して祈りを捧げる聖なる川にごみをわざわざ捨てる感覚というのはどんななのだろうか?

歩いているうちに下流の川岸に「何か見えるもの」がなんとか意味を為すようになってきた。500m以上は離れていると思うのだが、人がうごめいているのが見える。1人2人ではなく複数いるようだ。そして煙が立ち上がっているのが見えた。咄嗟にピンときた。火葬だ。すぐにカメラを取り出し、ズームを目いっぱいにして撮影してみた。近づいて撮影などしたら、怒られるに違いない。互いに人影がかろうじて見えるかどうかの距離だから、撮っておけるのだ。そうか、沐浴場から見て下流だから火葬場が設けられているのだ。

サリュー河岸の火葬風景
サリュー河岸の火葬風景

 

カメラを閉まってゆっくりとその火葬が行われている場所に向かって行った。部外者が近づくと何か咎められるだろうか、としばらく離れたところで様子を見、何も言われないのでさらに近寄ってその辺に立ちつくすインド人たちの中に入り込んだ。

井げた状に組まれた薪が適当に距離を置いていくつかある。それ以外に燃えカスもそこここにある。そこへ大きなトラクターのようなものがやってきた。田舎でサトウキビなどを大量に積んで走っている、後方に荷台のついたやつだ。そこに男たちが30人くらい乗り込んでいる。トラクターが停まると、男たちが降りて一緒に積んであった薪を降ろし始めた。直径20cm以上はありそうな、ちょっとした大きな木の太枝だ。その薪を川岸に運び、まず太い枝を1m四方に4本立てて杭のように打ち込み、その中に井げた上に組んでいく。そうすると燃やす途中で井げたが大きく崩れることがないのだ。

男たちの乗ってきたトラクターの荷台を覗きこむと、遺体も積んであった。竹と布で担架のようなものを作り、そこに遺体を乗せ、白い布でくるむ。それをさらに女性のサリーの布地のような深紅の布でくるみ、日本の幼稚園のクリスマスの飾りつけに使うような金銀のモールのようなものを遺体や担架に飾り付けている。

死の、あまりにもあからさまなありように圧倒されていた。遺体はみな、それをくべる薪や作業にあたる村の男たちとともに農作業で使う村のトラクターの荷台に乗せられて火葬場までやってくる。あまりにもシンプルだ。

 

ヒンドゥ教徒の人生観をなかなか理解できないでいる自分のような人間にさえ、インドは等しく根源的な問いを発してくる。すなわち、死ぬとは何か。生きるとは、何か。

決して消化することなどできそうもない、鉛の塊のような問いを呑み込んだまま、自分はこれから日本に帰国しても生きていくのだ。

感極まって目を赤く腫らして立っている自分を、周りのインド人が怪訝そうにジロジロ見るのでなんだか恥ずかしくなる。血縁だったり出自(カースト)を同じくする彼らが、身内の死に際してしれーっとしてるのに、他人のこいつがなぜ泣いてるんだ?というような表情だ。恥ずかしついでに告白するが、いい年した自分のようなおっさんが、インドでは泣いてばかりいる。

いくつもの集団がやってきて複数同時にあちこちで火葬を行っている。勝手に運んで来て、勝手に始めていいのだ。薪を組み上げると、男たちのうち10人程度がパンツ1枚になって、まず川に入る。腰の深さまでのところまで来て頭まで水に浸かり、全身を清める。それから川岸に置いた遺体の担架に駆け寄り、深紅の布を外してから担架を皆で担ぎ、川に入って行く。掛け声とともに担架を何度となく川の水にずっぽりと漬ける。何度も水に漬けているうちに白装束か白い布の端から遺体の硬直した片足がむき出しになっていた。そうして遺体を清めてから、井げたに組んだ薪の上に担架ごと遺体をしつらえる。

藁に火を付けて薪にくべる。近くで油を売っている露店があったので、きっと薪に油を掛けているに違いない。薪は思いもよらず大きな炎を上げて激しく燃える。それを眺めている男たち。実はこの火葬場には女や子供の姿を1人もみなかった。故人との最後のお別れの瞬間であるにもかかわらず、である。こういう作業は男がするものというしきたりがあるのかもしれない。それともサティ防止法との関連で、女がこういう場所に参加するのは激しく禁じられているのだろうか?

突然、後ろからトントン、と肩を叩かれた。振り返ると、1人の男が立っていた。何か自分に向かって言っている。一瞬よく分からなかったが、聞き返すとどうやら「写真を撮ったか?」というようなことを聞いているようだ。そこでまた一瞬、答えに窮する。「ちょっとこっちへ来い」と手招きをする。周りに一瞬緊張が走った。

その男についていくと、仲間の男たち20人ばかりに取り囲まれた。今日、仲間の火葬を行うためにやって来たらしい。少し離れた川岸に薪が組まれていて遺体が載せられている。「写真を撮ったんじゃないか?」「何時何分ごろ写真を撮ったのか?」と口々に問い詰めるように尋ねられた。

突然そんなことを聞かれるのも無理もなかった。実は今日に限って、デジカメ1台が入る小さなポシェットケースだけを肩からぶら下げて宿を出てきたのだ。いつもカメラなどはズボンのポケットに入れているのだが、ポケットが膨らむし、妙に重いので、今日はこの旅で初めて、そのケースをカバンから取り出して使ってみたのだった。それはカメラをぶら下げていると一目で分かるような格好だった。

「写真を撮ったんじゃないか?」と聞かれれば、正確には先ほど遠目で1枚撮っている。しかし彼らはどうやら自分たちが火葬のために連れてきた遺体が撮影されたか、写真の中に偶然にも写り込んでいるのではないか懸念しているようだった。しかしこの火葬場に来てからは写真を撮るどころか、ケースからカメラを取り出すことすらしていない。人の死のあまりにも厳粛な現場を前にして、とてもそんな気など起きなかった。

「NO! NO! NO!」と声を張って否定したら、彼らは急にほっとした表情を浮かべ、途端に自分への追及をやめた。こちらもほっとする。「嘘つくな、じゃあカメラのデータを見せてみろ」と一言あってもおかしくないのだが、彼らとてこちらがカメラを出しているところを見ていないのだから、特に疑っているのではなく、一応確認しただけのことだったのかもしれない。そしてなんと今度は彼らが持っていた各自の携帯で遺体に包まれた布をめくって写真を取り始めたではないか。やれやれ、部外者はダメだが自分たちは良いということなのか、それとも遺体の清めなど一定のプロセスの間の撮影は禁止ということなのか。やがて火を付けた藁を薪にくべ、遺体は勢いよく燃えだした。

周囲には簡素な掘っ立て小屋が立ち並んでいて、こうして一連の火葬を終えた男たちが、チャイを飲んだりサモサなどの軽食が取れるようになっていた。また薪がたくさん並べられていて、薪を用意できなかったものにいくらかのお金を取って販売しているようだった。

火葬場の遠景 近くでは到底撮影などできなかったのでかなり離れた場所から撮影 遺体を運んできたトラクターが並ぶ
火葬場の遠景 近くでは到底撮影などできなかったのでかなり離れた場所から撮影 遺体を運んできたトラクターが並ぶ

 

続いて上流の方へ行ってみた。そこは河に向かって階段状になっており、バラモンがそれぞれ小さな小屋を作って巡礼客からプジャを受け付け、儀式を施す場所だった。なるほど、上流はバラモンたちに割り当てられたスペースらしい。しかし巡礼客は少なく、みんな暇そうにしていた。

 

河を離れ、Faizabad方面へ戻るようにぶらぶらと歩いていくと、右手に検問所のような場所がある。警官が何人か常駐していて、奥へ通じる路地の前に踏切のバーのようなものが降りている。ここが例のラーマ寺へ通じる参詣道の入り口だ。テロを警戒してものものしい警備になっている。

バーをくぐって先に進んでいく。いわゆる、門前町のような雰囲気で、車1台が通れるほどの幅の路地が曲がりくねりながら続き、両側にヒンドゥ教の儀式に使う道具や、バングルなど女性の装身具、神様の置物やポスター、プジャーとして捧げる甘いお菓子などを売る店が延々と続いている。ただ、その路地を歩いていると何箇所も踏切の遮断棒の様な太いバーが設置されていて、何人もの警官が立っている。彼らにそれほど緊張感はなく、配備されているからそこにいるんだといった風情で、暇そうに立ち話をしている。しかし尋常ではない数の警官が駐在しているのを見ると、何かあるのだろうか?とこちらも思わず緊張する。

しばらく歩くと、ハヌマーンを祀るお寺にたどり着いた。土足禁止なのでサンダルを近くのミターイー(スイーツ)のお店の軒下に置かせてもらい、急な階段を上がって行くと、中央に小さなお堂があり、ハヌマーンを祀ってある。バラモンがその前に立っていて、参拝客からプジャーを受け取ってはなにやら聖句をぶつぶつと唱える。ヒンドゥ教では、捧げものを受け取ることは、バラモンにとっての仕事の一つとされる。だから儀式を施す「お礼」でも「対価」でもないのだそうだ。壁も床も大理石が敷き詰められ、寺の建立の寄進に携わった膨大な数の人の名前が刻まれている。

アヨーディヤーでヒンドゥー教徒の急進派がモスクを破壊し、ムスリムと衝突したのは1992年という。そのニュースはインド全国を駆け巡り、各地でヒンドゥ教徒とムスリムの衝突が起き、多数の死傷者が出たという。今朝、宿泊しているツールストバンガロウのマネージャーと話をしたら、彼はムスリムだと言っていた。「今でもここにはヒンドゥとムスリムの間で何か緊張があるの?」と尋ねると「全くないよ、平和そのものだね。そもそも1992年の事件だって、一部の過激な者同士でケンカを繰り返しただけで、多くの人たちはうんざりしていたんだよ」と言っていた。多数のヒンドゥ教徒の巡礼者が訪れ、多数のバラモンたちが滞在して日々のプジャを行っているこの町で、彼自身はどちらかというと肩身が狭い思いをしているかもしれない。しかも警察の強い介入で両派の争いが鎮圧されたというものの、モスクのあった場所はそれ以来国の管轄下におかれ、考古学局の調査が為され、モスク跡地からかつてのヒンドゥ寺院が発見されたことから、2010年には当該地をヒンドゥ教徒1/3、イスラム教徒1/3、ラーマ神1/3(実質的にはヒンドゥ教には3/2)というアラハバード高裁判決が下ったのだ。判決を不服としたイスラム教徒側はその後最高裁に上告しているが、モスクの再建も為されず、今でもこうしてヒンドゥ教徒による巡礼が支配的であることを考えると、このままこの土地が奪われるという焦りや、はらわたが煮えくりかえるような思いを持っていてもおかしくはない。しかし彼の落ち着いた言葉は救いだった。下手をすればここはインドのパレスチナにもなりかねない。血で血を争う抗争が今は静まっていても、地下でエネルギーをため込むマグマのように、何かの弾みで噴出してくるのをインド人はよく知っている。ムンバイをはじめ、インド各地で時々テロ事件が起き、インディアン・ムジャヒディン(インド国内のイスラム過激派)の名が挙がるたびに、インドではムスリムに対する敵対心や憎悪があちこちで顔をもたげるのだ。

こういう土地柄だからこそ、熱狂的なヒンドゥ信者による寄付や寄進が他の土地以上に集まるのかもしれない、と寄進者の名が刻まれたハヌマーン寺の壁を眺めながら考えていた。昨晩、インターネットでアヨーディヤーのことについて調べていると、ここには悪名高いRSSというヒンドゥ至上主義のグループも拠点を構えているらしい。インド各地で過激な行動を行っているグループだ。

ハヌマーン寺を出て、さらに路地を奥へ歩く。途中何箇所かバーが降りているところをくぐり進むと、突然、道に立っていた何人かの男たちから「ラーマ寺に行くのか?」と声を掛けられた。「ここだ、ここがオフィスだ」「エントランス・フィーを払え」と脇にある何でもない建物を案内された。その中に入ると、奥の部屋にオレンジ色の僧衣を着た1人のバラモンが威厳ある風情で静かに座っている。後ろから自分の後に入ってきた少し若めの、同じくオレンジ色の僧衣を着たバラモンが、手前でサンダルを脱いで奥に入るように、と指示する。

「怪しい」「おかしい」と思いながら指示に従ってサンダルを脱ぎ、裸足で奥の小部屋に入り、いかにも高い位にあるといった様子のバラモンの前に腰を下ろす。部屋の中は様々な本、紙類を束ねた資料らしきものが棚や床に積まれている。少し若めのバラモンが自分の横に座り、ラーマ寺の歴史、16世紀にはムスリムに破壊されてその上にモスクが建立されたこと、近年、政府の調査でそれらが判明したことなどをサラッと説明し、寄附を求めてきた。

やれやれ、ラーマ寺にはエントランス・フィーは必要ないという。それはそうだろう。その代りに寄附をしてくれというのだ。まるで自分たちが何か寺を管理しているかのような口ぶりだ。バラモンとして深く関わっているのは想像がつくが、本当に管理者かどうかは怪しい。年配のバラモンは若いバラモンの師(グル)なのだろうか、あまり喋らずに涼しい笑みを顔に浮かべて、若いバラモンに説明を任せている。若いバラモンは寄附台帳に記名するよう、半ば強引に迫ってくる。寄附しないとラーマ寺には入れないようなこと暗に匂わせてくる(実際にはそんなことはない)。

その態度には寄附を求める者としての謙虚さのかけらも感じられなかったが、よく考えてみればインドではバラモンが寄附を受けるのは当然の義務なので、こびへつらう必要がない。当たり前なのだ。しかし日本人からすると癪に思えるし、何より向こうも承知だろうが、こちらはヒンドゥ教徒ではないのだ。寄附をしないことでラーマ寺を拝観出来ないのならそれはやむを得ない。

話をはぐらかしたり、相手の話が呑み込めない振りをしながらどうしようか迷い考えていたが、実は今日はお金の持ち合わせがほとんどなかった。朝、ツーリストバンガロウのマネージャーにラーマ寺ではテロ対策のために貴重品は全部預けるんだ、パスポートは持っててもいいがカメラは持ち込み禁止だ、というような話を聞いたので、財布にも最低限の現金しか入れてこなかった。ここに来るまで適当に使ったこともあり、300Rsくらいしか入っていないはずだった。100Rsくらい渡して解放してくれないかな。いや、たった100Rsなんて怒られるだろうか。

若いバラモンは小さなビニール袋に入ったスナックのようなものを取りだした。「これはキスミスというものだ。寄附をしてくれた人には、毎年これを封筒に入れて送ってあげるんだ。ご利益があるぞ」と言う。中を見ると、ピーナッツとブドウを干したようなものが入っている、他愛のないものだった。「これ何?」と尋ねる。「これはキスミスだよ、食べるんだ。」「食べる?食べられるの?」とにかくもう、話をそらすのに必死だ。若いバラモンがビニール袋を破り、口に入れてみろ、と自分に渡す。恐る恐るそれをつまんで口に入れた。美味しい。当たり前だ、ピーナッツと干しブドウなんだから。

突然、自分はまずそうな顔をして立ち上がった。バラモンたちは驚いて、どうしたんだ、と声を掛ける。口を押さえたまま、おえっと、えづいて見せた。バラモンたちは慌てて「ここで吐いたらだめだ」とその部屋の横の扉から続く裏庭へ自分を案内した。外へ出て1人で壁に向かい、しばらく吐くふりをして見せた。自分でも驚いたことに、吐くふりをしているだけなのに胃が自然と痙攣し、「おえっ、おえっ」と、とめどもなく身体が震えてくるのだ。でも吐くものは何もない。だって先ほどのスナックは美味しかったのだから。しばらく唾だけを吐き続けていると、若いバラモンがコップに水を入れて持ってきてくれた。

もう、寄附どころの話ではない。自分はふらついて見せながら部屋へ戻り、さらに最初入ってきた建物の出口へ向かって歩く。年配のグルらしきバラモンもさすがにまずいと思ったのか、まるで取り繕うかのように、こちらに向かって手を合わせ、「ジャイ・ラーム(ラーマに勝利を)」と顔をひきつらせながら声を掛けてくる。1度目はぼんやりとそれを眺め、催促するように2度目の「ジャイ・ラーム」でやっとこちらも手を合わせて「ジャイ・ラーム」と挨拶を返すと、ホッとした様子だった。事を大きくしないでくれよ、というような表情だった。

建物を出てもしばらく、道が自然と曲がるところまでえづきながらふらふらと歩いた。やれやれ、助かった。これでしばらく彼らは道行く人々に声を掛けるのを自粛するだろうか?歩きながら、ひょっとして彼らはRSS(国民義勇団)のようなヒンドゥ至上主義の過激派だったのかも、などと思った。ラーマ寺の建立などにはいくらでも資金が必要だろう。お寺の建立ならまだしも、彼らの政治活動に寄附するなんて1Rsでもご免だ。ムスリムの肩を持つつもりもないが、かといって極端な思想に協力するつもりもない。金額の多寡に関わらず寄付しなくて良かったとホッとした。

しばらく歩くと、また警察官が何人か立っていて通りをバーが遮っている。それをくぐり抜けようとすると、「オイオイちょっと待て」という感じで警察官に引き止められた。そこで念入りなボディチェックだ。財布とパスポートは持ってよいと言われる。カメラは預けてこいと言われた。すぐそばに客のカバンや携行品を預かる小さな建物があり、棚にカメラを入れてもらって棚の番号が書かれた札を受け取った。先ほどの警察官のところに戻り、またもや念入りにボディチェックを受ける。パスポートの詳細をノートに記録する念の入りようだ。終えるとそばの小屋の奥へ行け、と指示された。金属探知機をくぐり抜けて小屋の裏から外に出ると、上も横も金属のケージに囲まれた細い道を歩かされる。道幅わずか1mほどの道が金網に囲まれているのだ。ケージに飼われたネズミにでもなったような気持ちになる。外は広々としているのに、ケージに閉じ込められ、狭い小道を移動するしかない。サルが近寄ってくる。ハヌマーン寺があるだけあって、アヨーディヤーには町中にサルが多い。それもヴァーラーナシーを思い出させる所以だ。しかし皮肉なことにここでは立場が逆転している。ケージの外からサルたちがこちらを眺めているのだ。

途中何度か警官によるボディチェックがあった。しつこい。それだけテロリストの脅威があることを示しているのだが、さすがにこれではテロリストもケージの中を逃げまどうしかないだろう。金網の中のネズミだ。2~300mは歩いただろうか、途中で小さな砂糖菓子のようなものを3粒もらった。これをラーマ神に捧げなさいと言う。それを手に持って歩いていると、金網の外にいたサルたちが手を伸ばし、自分の腕を掴んで奪おうとする。賢くて油断も隙もない。さらにしばらく歩くと、金網の外に小さな祠のようなものが見えて、そこで金網の外にある容器に砂糖菓子を捧げ、たまたま一緒に歩いていたインド人女性のグループとともに、そちらに向かって手を合せて拝んだ。

しばらく歩いていると少し道が広がった。天井の金網もなくなって広い空が見える。両側は鉄柵に変わった。そして土産物屋のような店が並んでいる通りに出た。あれ?先ほど通ってきた道だった。え?これで終わり?

訳が分からずしばらく立ち尽くし、今来た方を呆然と振り返って眺めていた。どう考えても単なる一本道しかなく、どこかで道を間違えたわけではなかった。すっかり大きなお寺があるものだと思い込んでいたが、よく考えてみるとまだ裁判は継続しているのだ。ヒンドゥ教徒のための大きな寺が建立されているわけではないのだった。先ほど拝んだ小さな祠のために、貴重品を預け、タイトなセキュリティを抜けて来たらしい。

事情は何となくつかめたものの、あまりの呆気なさに釈然としない気持ちのまま先ほど預けたカメラを取りに行った。リクシャなどが通っている通りまで1km近くはある参詣道を歩いて戻ってきたら急にどっと疲れを感じた。ツーリストバンガロウまではサイクルリクシャで帰り、夕食は宿の中のレストランで取った。

帰りにデジカメを返してもらってからラーマ寺の方向を撮影したもの こんな大きな塔には行けなかった
帰りにデジカメを返してもらってからラーマ寺の方向を撮影したもの こんな大きな塔には行けなかった
アヨーディヤーで見かけたホーリー用の臨時出店 色粉や水鉄砲が並ぶ
アヨーディヤーで見かけたホーリー用の臨時出店 色粉や水鉄砲が並ぶ