3/2 インドでの教育支援活動について

朝、ブラジェーシュさんのお宅を出てインドマイトリの会の事務所にお邪魔した。クシナガラの教育事情についてまだ聞きそびれていたことがいくつかあったので、所長さんに申し出て、時間を割いていただくようにお願いしたのだ。

所長さんは長年こちらで活動されているだけあって、自分が用意してきた質問に対し、過去の活動内容を一つ一つ挙げて、自分の見解を述べられる。その具体的な活動経験の話には、とても強く引き込まれるものがあった。


 

 

それは、苦悩の告白のように感じられた。2/21にクシナガラに到着されてからわずか10日ほどのおつきあいだが、いつもざっくばらんに話をされる方で、インドの食べ物のことから、ご自分の仕事の話、日本の政治のことまで幅広く話をされた。テレビゲームってどこがおもしろいんでしょうね、なんていう話もしたし、 自分も大いに所長さんとの会話を楽しんだ。しかしこのクシナガラでの教育支援活動については、ポンポンと歯切れよく話を進めることが難しいようで、時々言葉がよどみ、 確信無げに視線が宙を泳ぐ。

ささいなことに思えるような小さな支援についてさえ、こんなことまで、と思えるような情報を集め、逡巡に逡巡を重ねる。支援が決まって実行されても、必ず しも思うような方向に流れていかないジレンマ。心意気に惚れ、教育への情熱に打たれて支援を約束しても、いざその支援のカタチを目にすると、変容してしまう人の心。この小さな田舎の地に拠点を構え、濃密な人間関係の中でバランスを取りながら活動を続けることの難しさ。インドの人はやっかみがすごいとも言っていた。学校に新しい机といすを寄付した直後に全部盗まれたこともあったという。相手と何度も話しを重ね、交渉する過程で、相手の微妙な言葉のニュアンスや態度、表情にいたるまで、とても神経を注いで見ているようだった。

「その時その時でベストと思える判断をしてきたから、後悔はないわよ」と言い切りながらも、ずいぶん前に実行された支援についてさえ、声を絞り出しながら 「本当にあれでよかったのかと思う時がある」と何年も思い悩んでいるようだった。「どれだけ考えてもね、うまくいかない、分からない時もあるのよ。そういう時は仏さまにお祈りしに行くのよ。」と笑う。「でもね、そうかと思うと、ある時、ふとした瞬間に、意外とうまくいくこともあるのよ。」と付け加えた。


こういった活動は、荷をたくさん乗せた荷車をどうにかして動かそうとしているかのような作業に思えた。荷の重さで車輪がきしみ、不自然にたわんでいる。地面の土が車輪を食う。1人では無理だと人を集めて押してみる。「せーの」と声をかけ、みんなでタイミングを合わせて押してみる。それでもだめなら今度は車輪が食い込んだ地面を掘り返してみる。車輪の前に板を敷いて押してみる。

 

自分たちのような日本人が、インドの人の心や考え方をどれだけ理解できるのだろう。分からない、と悩みながら、その分からない人たちの心を動かそうとすることとは、一体どういうことだろう。人を集め、知恵を絞り、悩みに悩み抜いて。環境を作ってあげて、見守るしかないのよ、とも言っていた。少し話を聞いただけでもその重みの一端に触れた気がして、正直圧倒されてしまった。決して簡単なことをしているわけじゃないのよ、と諭されているような気がした。

 

 

 

 

続いて何年か前に行われた「学校へ行こうプロジェクト」の話を聞いた。これは前の事務所があった村の周辺で、学校に通っていない子どもに通学を促す、という取り組みだった。近くにある州立学校が無料だということで、インド人の校長先生と、所長さんと、所長さんの友人(日本人)で子どもの家庭を訪ねて説得して回る。「学校へ行く」と約束してくれた子どもには、ノートとペンを渡し、きっとバサバサの髪に泥のついた顔の子が多かったのだろう、登校日には小ざっぱりとした格好で来なさいと、石鹸を一つ渡す。そして事務所に毎朝子どもを集合させ、みんなで連れだって学校へ行く。放課後には事務所に集まって字の書き方を教え合ったり練習するなどの取り組みも実施された。しかしその後徐々に登校する児童が減少し、歯がゆい思いをしていたところ、教科書配布で訪れたビルマ寺に開設されている学校で、子どもたちの顔を見つけることに。その後調べてみると、ほとんどの子供が州立の学校から私立の学校に移っていたことが分かった。

そこまでは会報で紹介されていたのを読んで知っていた。しかし、せっかく誘ってくれた学校をやめて、なぜ子どもたちが転校したのか、あまり詳しく説明されていなかった。それは日本から持ってきた質問だった。それについて尋ねると、意外な答えが返ってきた。

子どもたちが通い始めた州立の学校には校長先生1人しかいなく、学年ごとに分かれたクラスを1人で回り、子どもたちの勉強を指導していたのだそうだ。近年学校が急激に増えたために、こういうことはよくあるらしい。なかなか目が行き届かない状況に、子どもたちも親の方も不安に感じ始め、もっとちゃんと勉強ができそうな学校を自分たちでそれぞれ探して転校したというのだ。

自分はその話をとても興味深く思いながら聞いていた。人の心の不可思議さに感じ入っていた。最初はただ、家の周りの、親たちの目の届く範囲で、毎日遊んで暮らしていただけだった子どもたち。「学校に行く」「勉強する」とはどういうことなのかすら、よく分かっていなかったに違いない。親たちの中にさえ学校へ通った経験がない人が多かったという。そういう子どもや親たちを説得するのは、一筋縄ではいかなかったはずだ。

 

人は、はしごの一段目に手をかけるのを躊躇する。「怖い」と言い、「上ってどうなる」と言い、「今日は手が痛いから」と言う。日本人が来て、校長先生が来て、ノートとペンをもらい、みんなで揃って行こうね、とお尻を押し上げてやって、ようやく手を伸ばす。そうしてやっと手を掛けた一段目がぐらついて不安定だと知った途端、「ほら、やっぱり」と言って降りてくるのかと思いきや、決してそうではない。彼らは、誰に言われるでもなく上を見上げて二段目を探し、今度は自力で手を伸ばすのだ。

 

 

ある時、ふとした瞬間に、荷を積んだ車は自ずと動き出すことがある。周りを囲んで悩む人々の想像を超えたところで、それが起こることがある。そろそろと動き出していたことに、後になって気付くことさえある。通じない、と思っていた考えが、複雑で追いかけられない回路を伝っていつのまにか通じていたこと、相手と共有できていたことを知る。インドのような国での教育支援活動は、時としてそういった自分たちの想像を超えた領域に助けられ、翻弄されながら進められるものなのかもしれない、と思った。

 

 

 

午後2時になって、ブラジェーシュさんの車でクシナガラの入り口のゲートまで送ってもらった。そこからKasiaへ行き、ビハール州の方向へ向かう。2週間余り滞在したクシナガラともお別れだ。Kasiaからバスに乗り、Gopalganjという町を目指す。きれいに刈り取られて平地になった畑を後ろに次々とはね飛ばしながら、バスが疾走する。バスの中で、図書館でマジックが行われた時の女の子のことや、学校を回って嬉しそうに写真を撮ってもらってる子どもたちのこと、自転車で畑の間や村々をサイクリングして回ったことなどを思い出していた。

何のことはなかった。今回、こうしてじっくり学校の中に入らせてもらう機会を得て、子どもたちの置かれた状況を少しずつ見ていく過程で、自分もまた、自分が経験してきた子ども時代の学校生活の外側に、全く別のやり方で勉強し、生きている子どもたちがいることを知ったのだった。それに気づいたことが、自分の人生にどれだけ大きな影響を与えるのだろう。それはきっとこれから実感していくことになるのだと思った。

 

                 →Spin Off 所長さんに何を聞いたか