禁断の恋の行方

 

→カーストの伝統は禁断の恋を許さない

モバイルフォンの修理店に勤める少年と、大学に通う少女が恋に落ちた。不幸なことに少年はダリット(不可触民)出身で、少女はブラーミンの家庭に生まれた子だった。村の因習によって認められない禁断の恋は、彼らを駆け落ちへと走らせる。故郷のハリヤナ州を出てデリーのヒンドゥー寺院で結婚の儀式を挙げた二人だったが、少女側の家族から警察に捜索願が出されて、居場所を突き止められる。少女はNari Niketan(結婚などで迫害を受ける可能性のある女性の避難所)に一旦収容されたものの、自分はもう18歳を超えていて、少年と一緒に暮らしたいと法廷?(又は審理の場所)で訴え、それが認められて晴れて自由の身になった。

ダリットの少年と大学に通う少女との間にどんな出逢いがあったのだろう。調べてみると、二人はハリヤナ州ロータック郊外の、田んぼや畑に囲まれた地域にある隣同士の村に住んでいたものの、軽く2km以上は離れている。少なくとも小、中学校時代の幼馴染というレベルではなさそうだ。少年はモバイルリペアの店に勤めるくらいだから、技術系か理工系の高等学校に通った経歴があり、そこで知り合ったのだろうか?それとも少年の勤める店に、たまたま少女が立ち寄ったことで交流が生まれたのだろうか。。

想像するに、昔ならそういう出逢いさえなかなか起こらなかったに違いない。大学に通う女の子は今よりもっと少なかっただろうし、男の子でもダリット出身であれば、小学校にすら通ったこともなく字の読み書きも出来ない子がきっと多かっただろう。もうはじめから共通言語がないというか、学校のこと、勉強のことなどはもちろん、生活周りの身近なことさえ、話題も共有できなかっただろうし、互いに魅かれあうような気持ちの共有(共感)などほとんどなかったに違いない。

教育は人々を平坦にする。人と人との間にある深い裂け目のようなものを埋めていく。そんな中で他人と交流する間に、何かに対して悔しい、悲しい、楽しい、嬉しいといった基本的な感覚を他人と共有できることに素朴に驚いたり、安心したりする。やがて生まれる感情は、しばしば村の伝統や慣習よりも本人たちにとってリアリティがあり、大事なものになったりする。

もう一つ、インドに急速に普及した携帯電話は、世間の目をはばかる恋に走る若者たちにとって、直接会わなくても交流できる必殺ツールになっているらしい。頭の硬いカップ・パンチャヤットでは未婚の女の子に携帯電話を持たせると駆け落ちしてしまうから禁止、というような通達を出すところまであるそうだ。

インドの映画は見ないのでよく知らないのだが、映画にあってもおかしくなような甘酸っぱいストーリー。しかし現実はもっとゴリゴリした、無粋で殺伐とした展開が続く。二人がそれぞれ住んでいた二つの村からメンバーが選出されてパンチャヤット(合議)が持たれ、「伝統と慣習に合わない結婚は認められないので、即刻離れて生活するべき」との決定が下された。今後実際に起きかねないのは少女の家族、もしくは所属カーストのメンバーが二人の住処に派遣され、「家族、カーストの名誉を守るために」二人を嬲り殺しにする、というパターンだ。Honour Killing(名誉殺人)で悪名高いハリヤナ州だ。逮捕されるのを覚悟しての確信犯的行動は珍しいことではない。