2012年

1月

11日

インドの牛の不思議

 

→マディヤ・プラデーシュ州の改正牛の屠殺禁止法、大統領が承認へ

マディヤ・プラデーシュ州で1昨年議会を通過し、中央政府に提出していた改正牛の屠殺禁止法について、パティル大統領は承認する意向を表明した。大統領の承認を経て、同法は発効する見通しだ。旧法は2004年に制定され、罰則が3年以下の懲役と1万ルピーの課徴金となっていたものの、違反者が罰金を払うだけで済ませて実効性がないという批判の声があった。今回の改正は最低でも1年以上、最長7年の実刑が科され、同時に課徴金も5000ルピーと減額されたものの合わせて科される。牛の屠殺行為はもちろんだが、屠殺目的での牛の輸送(移動)や一時保管など、一連の行為が取り締まりの対象となっており、一定のレベル以上の警察官に必要な捜査の権限を与えている。わずかな量の牛肉を持っているだけで逮捕の対象となり、疑いを掛けられて逮捕された者が裁判で無罪を立証する責任を負うなど、「疑わしきは罰する」という厳しい内容になっているのが特徴だ。

ヒンドゥ教徒が8割を超えるとされるインドでは、牛はシヴァ神の乗る聖なる動物とされ、決して食べられたりしないと思われがちだが、実際には世界有数の牛肉生産・消費を誇る国だ。当のインド人、特にヒンドゥ教徒はその事実を知らない人が多い。消費を主に担うのは、2億人以上はいるとされるムスリムのほか、キリスト教徒などとされているが、ヒンドゥ教徒の不可触民の中にも実は牛肉食をする人たちがいるのではないかと考えられる。農村では、昔から農耕用に牛や水牛が飼われてきたが、病死した牛の死骸や年老いて動けなくなった牛の処理は、主に一部の不可触民が生業として請け負ってきた。死骸には「穢れ」が宿るとされ、一般のインド人はそれに触れることさえ忌避してきたためだ。死骸または屠殺した牛の皮をはぐカースト、その皮をなめすカースト、なめした皮を皮革製品に加工するカーストなど、それぞれ専門化した職人がいたという。不可触民の中には、豚を飼育したり、ネズミ、コウモリを捕えて食べる生活をしてきた人たちがいる。その食生活ゆえに穢れた存在とされ、不可触民として扱われてきた。そうした人たちが極貧の生活の中で、生業の関係で手に入れた牛の肉だけは食べることを完全に避けてきたと考える方がむしろ難しい。

現代では年老いた家畜の処理方法として、法律で禁じられていなければ屠殺業者に売り払うことがあるようだ。農家にとっても貴重な収入源になる。食肉処理、皮革の加工などはムスリムの職人たちが中心になって行っている。その生業ゆえに差別されてきた歴史から、ヒンドゥー教徒からムスリムにコンバートした人も多いと思われる。屠殺禁止法の運用が厳格になり、仕入れが難しくなると、食肉加工や皮革産業に関わるこうした人々の生産活動にも大きく影響することは間違いない。

では一定の割合で悪影響を被る人々がいるにもかかわらず、なぜ法律で屠殺を禁止するのか。それはマディヤ・プラデーシュ州の政権を
ヒンドゥ右派のBJPが握っているからとされている。BJPの支持者はカーストヒンドゥ、特に高位カーストが多い。ヒンドゥ至上主義を掲げ、牛肉を食べるムスリムや一部の不可触民の生活とは無縁の人たちだ。確かにBJPが州政権を担っているグジャラート州、チャッティースガル州、ウッタラカンド州、ヒマーチャル・プラデーシュ州でも既に同様な法律があり、2010年にカルナータカ州でも新たに同様の法案がBJP州政権の下に提起され、議会を通過した。一方、国民会議派および共産党など左派系の政党は、「ムスリムなどのマイノリティの生活を顧みるどころか、切り捨て、民族間の争いを不要に煽る法案だ」と批判する。実際にカルナータカ州で新規に起草され、議会を通った屠殺禁止法案も、大統領の承認を未だに得られず、1年以上も放置されたままのようだ。

BJPといえば、グジャラート州などでアンチ改宗法法案を通し(→信教の自由を否定するアンチ改宗法)、ヒンドゥ教徒が他の宗教に改宗するのを防ぐなど、国民会議派が唱える「宗派を超えた国民の融和」よりもヒンドゥ教優先、ヒンドゥの汎インド化を目指す政党だ。インドでは国民会議派に対抗しうる唯一の全国区政党であり、いくつもの州で政権を担っている。

しかしこのBJP政権が近年、この種の法律を強化する以前から、国民会議派の政権でもこの牛の屠殺禁止法案が各州で施行されてきた歴史がある。以下の記事に概略が掲載されているので紹介したい。

→マディヤ・プラデーシュ州、改正屠殺禁止法を強行

少し古いが、独立以降に各州で制定された法律や、藩王の出した命令などのリストも紹介する。

 

http://dahd.nic.in/ch2/an2.8.htm

 

こうしてみると、州ごとに少しずつ規定が異なるものの、多くの州で牛の屠殺や屠殺用にトラックなどで輸送することなどが全面的に禁止されたり、州の許可証を必要とするなど、厳しい制限が設けられていることが分かる。中には実効性の薄れている法律もあるかもしれないが、それでも多くの州で牛の屠殺に関わるのは難しそうだと分かる。ラジャスタン州やカシミールなど、ムスリムの多い州でも、この種の法律があることに驚く。インド東北部のいくつかの州(メガラヤ州、ナガランド州)では定められていない。この辺りに住む少数民族には牛肉食の習慣があるのかもしれない。また、人口の多い州としてはケララ州や西ベンガル州が比較的規制の緩い州として知られている(→3/6 インドで牛の屠殺を見に行く)。その背景には両州とも共産党など左派系の政党が長く政権にいたことがあると言われている(※西ベンガル州は昨年の州選挙で政権交代が起きた)。

不思議なのは、これだけ多くの州で規制があるにもかかわらず、インドの牛肉の生産量は世界的にみてもとても多いということだ。国内消費量はさすがにその人口に比して決して多いとは言えないが、それでも焼肉屋が街にあふれる日本よりも多い。統計で見るインドと、インド国内の事情は真逆(実際、インドで牛肉が食べられる食堂は、ないわけではないが、とても少ない)であることに、とても混乱してしまう。

→学習塾のサイトより、世界の牛肉(生産量、消費量、輸出量、輸入量の推移)

アメリカ農務省は、世界最大の乳製品消費国であるインドでは、国内の高まる乳製品需要に応えて牛の飼育頭数は順調に増加しており、それに比例して牛肉の生産量も増加すると予測している。また、インドが主に牛肉を輸出している東南アジア諸国、中東、北アフリカでもインドが提供する低価格の牛肉に対する需要が高まっていることなどから、順調に輸出量が伸びており、2012年度はアメリカを抜いて世界第3位の牛肉輸出国に躍り出るだろうと予測している。

→アメリカ農務省、インドの牛肉輸出の大幅増加を予測

→家畜及び家禽類の国際市場と取引(PDFファイル)2011.Oct (アメリカ農務省)

インドの貿易輸出額に占める牛肉の割合は今のところ決して大きくはない。しかし慢性的な赤字体質となっているインドの貿易状況の中で、追い風を受けて輸出額を大きく伸ばすチャンスを迎えていることには違いないようだ。その一方で宗教的な立場から牛肉の生産を悪事として厳罰化する動きが州政府から次々と起きている。日本人のような部外者には、ヒンドゥ教徒の宗教感情というものはなかなか理解できるものではないだろう。しかしわれわれは利害関係がないからこそ鷹揚に状況を眺められていられるが、インドに住み、牛肉で生計を立てている人たちにとっては、牛の屠殺禁止法こそが自分たちの生き死にを左右する法律だ。深い亀裂を内在するインド。相変わらずふらふらと彷徨っているように思える。

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コメント: 4
  • #1

    やきそば (日曜日, 12 8月 2012 14:55)

    インド 牛肉消費量 の検索から来ました
    おもしろかったです

  • #2

    管理者 (日曜日, 12 8月 2012 21:41)

    閲覧いただき、ありがとうございます。インドの牛肉消費について何かご存知でしたら、教えてくださいね。また何かこちらのブログについて誤解や間違いなどがありましたらご指摘ください。

  • #3

    牛と水牛 (月曜日, 22 9月 2014 16:51)

    ムスリムとの関係やリンク先の情報など、大変勉強になりました。どうもありがとうございます。

    牛肉(と呼ばれている肉の)生産量が多い理由は、ミルク消費量が多いインドでは水牛が多数飼育されていて、ミルクが出なくなった水牛の肉を牛肉として輸出することが州によっては可能だから、ということのようです。

    また、経済的に豊かになってきても、インドにおける食肉の消費量は横ばいのままだそうです。

  • #4

    tat-tvam-asi (月曜日, 22 9月 2014 23:12)

    こんにちは、管理人です。貴重な情報を教えていただき、ありがとうございます。インドの牛肉はどこで生産されているんでしょうか?輸出先として東南アジアが多いと聞いたことがあります。水牛の肉が東南アジアでたくさん消費されているのかもしれませんね。