2012/3/1 ●ビームベトゥカとユニオン・カーバイド社に行く


左足がまだ痛いが無理して出掛ける。結局昨夜に泊まったホテルだが、新たに歩き回って探す元気もないし、周辺を探したところで大して変わらないだろうと思い、今日1日で行きたいところを周り、明日はサーンチーに移動することにした。

今日はまずビームベトゥカに行く。太古の昔、デカン高原に住んでいた人々の岩窟住居での壁画だという。今回の旅はこれがハイライトと言えるほど、楽しみにしてきた。現地のアディヴァシ(先住民族とされる部族のうちの一つ、オーストラロイド系の顔立ちをしている。インドでは現在激しい差別に晒されていることが多い)の人々の習俗にも似たようなタッチの絵画が見られるという。つまり、アーリア人がやってくる前、先住民族が文化社会的な支配に晒される前の、生き生きと生活していた時代に遡ることができるのだ。

コルカタで入手したロンリープラネットに書いている通り、南に下るバスに乗り込み、ビームベトゥカに続く一本道と分かれるところで降ろしてもらう。そこからは3kmの距離だという道路標識が掲げられている。

足を引きずりながら歩き始めると、分かれ道の角のところに少年がいて自転車が一台とまっていた。自転車の修理みたいなことをしていて、そばにはタイヤやチューブが転がっている。「ちょっと自転車貸してよ」というと「だめだ」と断られた。そのうち何人か大人が集まり始め、「バイクで連れて行ってやるぞ、往復で100Rsだ」、「自転車は無理だ、上り坂だから」などと言われる。上り坂?本当かな?ガイドブックには書いてなかったぞ、と思いながらもバイクで往復100Rsには惹かれたが、結局歩くことにした。ただでさえこちらは足が遅いのだ。向うで待ってもらうのは忍びない。というよりも急かされるのはごめんだ。自分のペースでじっくり見たかった。向うでのんびり1時間以上見て廻っていると、後で料金面で揉めるのは目に見えていた。100Rsはむしろ安すぎるくらいだ。

とぼとぼと田舎の一本道を歩き出す。後から来た子供が足を引きずる自分を見ながら追い越していく。田園風景というか麦畑の風景だ。青い麦に実がついている畑もあれば、なぜか茶色く枯れている畑もある。青と茶のコントラストがのどかな風情を醸し出していた。風も気持ちよく、道の両側の木の葉を揺らしてかすかな音を立てていた。足さえ痛くなければ最高だな、と思った。

 

こんな田舎の一本道で強盗にでも出会えばひとたまりもないなーと思いつつも、そんなことはまず起こりそうにないと信じたくなるほど平和な農村の風景の中を歩いていた。

集落に学校の制服を着た子供たちがいて、大勢でこちらを見ている。自分が徐々に近づくにつれ、家の中に隠れ、顔だけ出して恥ずかしそうにまたこちらを見ている。まだ午前中なのにどうして制服のままぶらぶらしてるのだろう。「スクール・ジャオ!(学校に行きなさい)」と声をかける。みんな笑顔のままこちらをじっと見つめるだけだ。

その先では道の脇に女の子3人が井戸端会議でもするかのように向かい合ってしゃがんでいる。何をしているか、、、用を足しているのだ。この子達も学校に行っていておかしくない年頃なのに、パンジャビスーツや小さなワンピースを着てこんなところで過ごしている。今日は木曜日のはずだ。

その中のうちの比較的大きな少女がしゃがんだまま、声をかけてくる。早口でワーッとまくしたてるので何を言ってるのか分からないが、どこに行くのか尋ねているらしい。どこってこんなところを歩いている外国人はビームベトゥカを目指しているに決まっている。「アーゲー(むこうだよ)」と前を指差しながら適当に返す。足を引きずっているのを心配してくれているのか、「歩いていくの?すっごく遠いよ、やめたほうがいいよ、道もこんなだよ」としゃがんだまま右手を斜め前方に伸ばし、急な坂があると強調している。やっぱり目の前にある丘陵を登らないといけないらしい。こちらを向いているので分からないが、きっとお尻を出したままなんだろうと思うと、何か真剣に心配してくれているのがおかしくなってくる。

まだ数百メートルしか歩いていないが、すでに先ほどバイクでの送迎を断ったことを後悔し始めていた。足が痛い。時々バイクが後ろから来るので期待を込めて振り返るが、いずれも二人乗りだ。少女が立ち上がってさっとズボンを上げ、両手でバイクのハンドルを握るしぐさをして「バイクで行ったほうがいいよ」と言ってくれるが、もう後の祭りだ。

しばらく歩くと、目の前に丘陵があり少し上りかけたところにチケットカウンターのようなものが見えてきた。なんだ、意外と早かったな。まだもう少し歩かないといけないだろうが、ここまで30~40分ほどしかかかっていない。料金は外国人100Rs、先ほどのバイクに乗せてもらっていたら、彼の入場料10Rsとバイク持ち込み料50Rsも払わないといけなかったようだ。

料金を払って少し進むと、また係員の詰め所みたいな小さな小屋がある。「どこから来た?」と声をかけてくるので「日本だ」と答えると、山の頂上を指し、「まだ2kmあるぞ」とこちらの引きずる足を見ながら言う。「え、2km!?」どうやら丘陵の頂付近に大きな岩がたくさんあるが、あそこまで行かないといけないらしい。「バイクで行ったらどうだ?50Rsだ」とそばにあるバイクを指差す。今度はもう断る理由などない。二つ返事でOKした。

丘陵の斜面は千畳敷のような大きくて平たい石がそこらじゅうに転がっている。低い潅木が乾燥に耐えるように葉を落として枯れ木のような風情であちこちに生えている。奇妙な風景が広がっていた。バイクで上っていくと、2kmあるかどうかは微妙だが、確かに距離があった。緩やかな傾斜ではあるが、果たしてこの距離をこの足で登ることができたのか。この世界遺産に勤めている係員がこんなアルバイトで小銭を稼いでいるのか、と思う一方、正直ほっとした。

頂上より少し手前に入り口があり、そこから大きな岩の間を縫うように歩いていく。思ったより距離があるらしい。往復で1.4kmと説明板に記されていた。丘陵の頂だけに巨大な岩があちこちにある。折り重なったり、積み重なったり。これも不思議な光景だった。

岩の間を足を引きずりながら歩く。岩に絵が描かれた年代には相当な幅があるように表記されているが、どの絵がどの年代に相当するかははっきりと分からないらしい。それらを見て歩きながら自分は想像していた。

こういった千畳敷?のような平らで大きな岩に覆われた丘陵だった
こういった千畳敷?のような平らで大きな岩に覆われた丘陵だった
大きな奇岩が多いビームベトゥカの丘陵
大きな奇岩が多いビームベトゥカの丘陵

 

今、この地を見渡すと相当乾燥している。雨季にはまた少し変化するのかもしれないが、水分を含んだ実がたわわに実りそうな木がありそうな様子はない。ベトゥワ川という川もあるらしいが、その源流からも相当な距離があるようだ。それでもあえてこの地にヒトは住んでいた。

古代、ヒトは弱い動物だったのだろう。野生の象や豹、トラ、イノシシなどにおびえて暮らす生活だった。自然の要塞となる岩場に集団で身を潜め、夜が明けると狩に出掛け、食べられそうな果実を探し、日が暮れる前に帰ってくる。夜は危険だった。

ヒトは本来、川沿い、池や湖の畔など自ずと水場の近くに居を構えるものだ。文明は大河に寄り添って生まれる。しかしそれは集団がそれなりに大きくなり、周囲を切り開くなどし、獣たちが近寄りにくくなってからのことだったのだろう。狩猟採集に依存する社会では、たとえ水に事欠き、渇きに耐えながら、こういった丘陵の頂であっても岩場に隠れるように生活することが生命維持の絶対条件だったのかもしれない。水場は獣たちに支配され、人間は昼間明るいうちにそっと目立たないように立ち寄っていただけだったのかもしれない。

このビームベトゥカには、ヒトや牛、馬、象、鹿、あるいはそれらに乗ったヒトの姿、棒と盾のようなものを持って戦闘している姿、時には子供が自分の手を壁に当てて、手指の回りをかたどったような手形もあった。大きな猪豚が人々を蹴散らす姿、大地を後ろ足で蹴って走る馬に乗り、振り向きざまに後方の敵を叩く戦士の姿など、躍動感のある絵もある。

人々はどういう思いでこれらの絵を描いたのだろう。夜、火を炊いた明かりの中で、こんなふうに描いたら牛みたいに見えなくね?ここに角をつけたら、前足をこういうふうに曲げて、刺された戦士から血が出て、などと数人で言い合いながら描いていったのだろうか。夜にまぎれて行動する動物たちの鳴き声、獣の遠吠え、焚火のパチパチという音が静寂を際立たせるような、山の洞窟の夜は人々の想像力をかき立たせる絶好の環境だったのかもしれない。

芸術とは縁のない自分だが、絵を描くという作業はなんて原始的な情熱をともなった作業なのだろうとつくづく思う。少しずつ線を足すに連れてそれがカタチになり、さらにヒトのイマジネーションを広げていく---そんな古代のヒトの姿を想像していた。

また、10万年以上も前に、言葉や文化も異なれば、それぞれ持っている世界観もまったく異なっていたであろう、この絵を描いた人々と自分が、これらの絵の意味を共有できることがなんだか不思議に思われた。

 

おそらく、ここを見て周った観光客の中で最長滞在時間を記録しただろうと思われるほど、ゆっくりと時間をかけ、出口に向かう。ここは食べ物も水も売っていない。「ここで待っていてもバスは来ないよね?」などと係員に冗談を言って丘陵を降りていく。

正直、岩の絵を見て歩いただけでも相当疲れた。しばらく歩いていると、インド人学生の二人連れの乗ったバイクが後ろからやって来て止まってくれた!なんとかなるもんだ。バイクの3人乗りで丘陵を降りていくが、途中で見る景色がすばらしかった。そんなに高度はないのにデカン高原に広がる景色が一望できる。バイクで一瞬で通り過ぎるなんてもったいないことをした!と救世主に助けてもらった身分ながら後悔した。この景色を見るためだけでもここに来る価値はある。

青年たちは技術系の大学生で、数キロはなれたオバイドゥルガンジという小さな町まで行くというので、そこまで送ってもらった。ちょうどボーパールに戻る途中にある。そこからバスを捕まえてボーパールまで戻った。

ボーパールに戻ってから向かったのは、サンバヴナ診療所とユニオン・カーバイト社だった。今回、ボーパールに来ようと決めたのはビームベトゥカの岩壁画の存在を知ったからだったが、それまでの自分にとってインドのボーパールというと、昔アメリカの化学工場が爆発を起こして一夜のうちに多数の死傷者を出した町、ということしかイメージがなかった。その工場は意外にも市内にあり、自分の泊まっているホテルからそう遠くなさそうだということを知り、行ってみたくなったのだ。サンバヴナ診療所は爆発事故を起こしたユニオン・カーバイト社が被害者のために設立した診療所だ。

市内のバススタンドからそれほど遠くない距離のようだが、はっきりとした場所は分からないのと、手持ちのお金が少なかったのでオートリクシャに近いほうのサンバヴナ診療所に行ってくれと頼む。ドライバーは何回か聞き直した後、「ああ、サンバァブゥナァ キリニックゥ かあ」といかにも地元で通ってそうなアクセントで了解したような口振りだったが、いざ行ってみると、大体の方向はあっているものの場所は知らなかった。まったくいい加減なものだ。そこらへんの人に何回か聞き直した挙句、車を降りて細い路地を探し始めるので、最初に約束した料金を手渡して「自分で探すからもういいよ」というが聞こうとしない。場所を知らずに適当な返事で客を乗せるくせに、最後まで客を案内しないのは彼の沽券に関わるらしい。インドのリクシャドライバーにはこういうパターンが多い。

ようやく探しあてた診療所はなるほど、ここは知らなくても無理はないな、というほど入り組んだ工場街と住宅街の中間にあった。車では入っていけないような場所で、オートリクシャすら入ってくることがほとんどなさそうだ。周囲の下町然とした雰囲気とは少し異質の、レンガ造りの瀟洒な建物につるバラが這い、いくつか花を咲かせて上品な雰囲気を醸し出していた。大きな庭こそないが、花や植木が植栽された植え込みスペースはよく手入れが行き届いており、どちらかというとサナトリウムというか療養所のような落ち着きが感じられ、病院が持つような権威ぶった堅苦しさはまったくなかった。

ここに来るまで自分はどちらかというと、巨大な多国籍企業が補償の意味を込めて地域医療の中核を担うような大きな病院施設を建てたというイメージを持っていた。町に住む人はたいてい誰でも知っていて、みんな一度はお世話になっててもおかしくないような病院だ。ひょっとしたらユニオン・カーバイト社よりもこちらのほうがリクシャドライバーが客を乗せる機会は多いかもしれないという期待もあってこちらを指定したのだったが、予想が大きく外れた感じだ。

門が少し開いていたので、中を覗いていると敷地内で談笑している男たちがやって来て、何か用か聞いてくるので、ユニオン・カーバイト社の場所を聞いていったん退散することにする。別に何か聞きたいことがあるわけでもなく、ただ見に来ただけだった。まさかいきなりかつての被害者の方はどうですか?などとは聞けない。

 

続いてユニオン・カーバイト社に行ってみることにした。診療所から500mほど北に進むとあるという。この辺はムスリムの居住区らしい。黒いへジャブを纏った女性の一団が後ろから通り過ぎ、神学校の真っ白なイスラム式の制服を着た男の子たちとすれ違う。みんな頭に丸い小さな帽子を載せていて可愛らしい。よほどのことがないと決して迷い込むことはなさそうな住宅街の路地を右に左に曲がり、生活排水を垂れ流した水溜りを飛び越えて進む。ユニオン・カーバイト社はこの辺では「ファクトリー」の名で通じるらしく、時々「ファクトリーはどこ?」「まっすぐだよ」と確認しながら歩いた。さすがにこんなところを外国人が通ることは滅多にないようで、久しぶりに遠慮のない視線を全身に浴びる。子供は家から顔を出して「ハロー」と呼びかけてくる。

住宅街を抜けてごみが散乱して犬たちがたむろしている空き地を抜けると、大きな道路があり、その向こうにかつてのユニオン・カーバイト社があった。高い塀に囲まれたその敷地は相当広く、端までは歩いていけそうにないくらいだった。道路は最近拡張が進められているらしく、まだ砂利がしかれたままだ。敷地内は林のように大きな木が適当に茂っているが建物が建っているような様子はない。

 

道路に面した大きな門に向かって歩いていくと、中からひょっと男が出てきた。いかにもこの近くに住んでいるような、普通の格好をした若い男だ。中に散歩しに行ったのか、林の陰で用を足して帰ってきたような風情なのに、門の鉄柵の隙間から中を見ている自分に「パーミットがないと中には入れないぞ」と言い張る。2万人とも言われる死者を出すほどの毒ガスを吐いた工場に、20数年経っているとはいえ踏み込むつもりなど毛頭なかったが、別に警備の任務に就いているわけでもなさそうな男に言われるとなんだか腹が立つ。しかしあまり角を立てても得することはない。地域住民の中には未だに複雑な感情を持つ人もいるかもしれない。部外者が興味本位で覗きに来ることに反感を持つこともあり得る。

塀の周りを少し歩いていると、道路を挟んだ反対側の歩道に慰霊碑が建っているのを見つけた。赤ん坊を抱く母親に、別の子供がすがり付いている像だ。「私たちも生きたい」と英語で刻まれている。慰霊碑の台座に英語で慰霊の文言が書かれたボードを見て驚き、失笑した。

意外にもそれは「NO HIROSH(I)MA」という一文から始まっていた。正確にはSHIの「I」の部分にひびが入っているのだが、「NO MORE HIROSHIMA」と書きたかったようだ。「NO HIROSH(I)MA NO BHOPAL 」から始まるその慰霊文はガス爆発事故を起こしたユニオン・カーバイト社をKILLERと指弾する一方で、被害者に対して哀悼を送っていた。

 

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