2/14 ●物乞いと廃物拾いの少年

ゴラクプルを1日ウロウロする。デリーでは比較的きれいなところばかり見てきたせいもあり、鉄道でウッタルプラデーシュに入ってゴラクプルに到着すると、これまであまり見てこなかったものを徐々に目にするようになる。今日通りを歩いていると、人が倒れて何か喚いている。そばには近所の店の前を掃いて集められたごみが小さな山になっている。そのすぐ脇に、おそらく肢体が不自由で体のほとんどが硬直しているような女性が転がっているのだ。通りかかった自分の足元に、わずかに動く手で持っていたかじりかけのなすびのようなものを放ってきて、ほとんど怒声に近い叫び声で「パイサ、パイサ」と喚いている。年は50代くらいか、こういう境遇のせいか実際より老けて見えるのかもしれない。一体全体どうしたのかと思うが、周りのお店にいる人もカートの物売りも一瞥だにしない。そしてもっといやな気持ちになったのは、昨晩にこの場所を何度となく通ったのに、この女性を一度も見かけなかったことだ。とても一人で動けるような状態ではない。おそらく一人で用を足すこともできないだろう。たまたま今朝方、どこからか連れてこられてうち捨てられたのか、それとも毎朝、ここに連れて来られて、夕方にはまたピックアップされてどこかに帰るのだろうか。。

子供が学校に行かずに働いている姿も目立つ。はだしでボロボロの袋にペットボトルとか廃物を拾って歩いているのは、近くのビニールシートなどを張り合わせたテントが何十張りか集まっているスラムの子供だろう。朝、駅前でカートに乗ったみかんを売っている男の子にジュースを絞ってもらって飲みながら学校に行かないのか尋ねると、短く吐き捨てるように「NO」と返事が返ってきた。彼らは物分りがいいというか、廃物拾いの子供は、ごみを漁る手を止めて運動場で揃って運動している自分と同年代の子供たちを物珍しそうに眺めてはいたものの、決して羨やんだり恨めしい表情でもなかった。むしろ彼我の違いを初めから分かっている、認めているかのようだった。「同じ年頃の子供なのに」「同じ人間なのに」という認識があって初めて人は不公平だと不満を持つことができる。インドにはこういった「同じ○○なのに」と共有できる意識に乏しく、生まれ(ジャーティ)などの彼我を分ける亀裂だけが初めから厳然と存在している。そういう気がする。

 

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